ぱぴぷぺ_ぽきぷし通信

過去関心 Poughkeepsie の日記(バスケ式+)

読谷村民2500人が語る地上戦 その二

沖縄の人々は、日本軍を郷土を守ってくれる「友軍」と捉えていた。

が、しかしその友軍の、「本土」防波堤の「捨て石」とするという軍令書が残っている。

住民に残された選択肢は二通り。

100km以上離れた北部の「やんばる」を目指し、熱帯密林のなか着の身着のままの逃避行。葉っぱを海水で似た汁を作り、蛙やナメクジを捉えて貴重な蛋白質源にする。しかし多くが道半ばで栄養失調死していく。

密林の中で、終戦なぞ知りようもない。2ヶ月以上も無駄にさまよい続け餓死していった人々。お椀を抱えたまま動かなくなってる人がいる。手を合わせ、虫の湧いたそれをもらって命をつないだ人。奇跡的に生きのびた人。

行けなかった人、残った人はガマへ。
火炎放射器で焼け死ぬか、手榴弾で爆死か、自決か。

もっとも残酷な証言もある。「友軍」から襲撃された証言だろう。

「鬼畜米英」の「捕虜」となり、食料を与えられ、村の浜辺の小屋に保護された。命がつなげたとほっとしたところだったという。

郷土を守ってくれるずなの「友軍」は、闇夜にまぎれて「スパイ」と断定し、こともあろうに村民達を「処刑」した。

本音は「自分たちは食うや食わずなのに、敵国からのうのうと配給をもらい生き延びるとは何事」だ。

男は全員リンチで殺される。ここに内容は記さない。
女子供達は、明け方浜辺に整列させられ手榴弾を投げつけられた。

生き延びた村民の証言だけではない。「友軍」の中には自責の念に駆られた人がおり、生前その上官のその処刑命令の内容を詳細に手記を残している。

袋小路に追い込まれたら「内ゲバ」に走るのが、我々の民族性なのかは知らない。でもそこに軍紀のかけらも無い。

当時4歳のある幼子は被弾し全身血だらけになりながらも、奇跡的に米軍に救助される。抱いていた母は死に、親代わりだった兄もその惨事から立ち直れず入院したままだ。孤児となり全身の瑕をからかわれながら大きくなった彼女。畑のものまで盗んででも生き延びたが、今は辛過ぎる故郷沖縄を離れている。

その彼女のことを気にかけていた女性がこの調査で判明した。同じ村で年長の少女は、浜辺での処刑時、最前列にいた為手榴弾が頭の上をすり抜け、九死に一生を得る。すぐ後ろで血だらけになったその赤ん坊の事を永年気に留めていた。当時4歳だったあの血まみれの幼子だ。

証言収集活動やこの取材を通して、今回奇跡的に再会できた。いやお互いに「是非会いたい」と希望したのだ。

それを体験した者同士しか判らない地獄絵。
初めて他人と心を開いて語り合える。60年経ってやっと悲しみを共有できる人に会えたのだ。

大阪へ帰る前、二度と踏み入れまいと誓ったあの忌まわしい村の浜辺を訪れる彼女の姿があった。

「おとーさーん、おとーさーん」と唐突に呼びかけるその声は、親に甘える4歳児にもどったかのような子供の声に聴こえた。「処刑」されたため彼女の記憶にはおぼろげな父に、何度々も呼びかけていた。