ぱぴぷぺ_ぽきぷし通信

過去関心 Poughkeepsie の日記(バスケ式+)

「夏は来ぬ」

60年前の廣島の話だ。「悲泣の話」を日記に書いた翌日、泣いてしまった。

「第壱県女」では新入生に日記を配っていた。その中学一年にあたる13歳の少女たち3人の8月5日までの日記をもとに構成された番組だった。

戦時下、授業などなく校庭の芋畑作りや勤労奉仕に追われる学校生活が書かれている。同時にそれは書かれることのない我が子の8月6日の日記に思いを馳せた肉親たちの記録でもあった。

そんな彼女たちが、心を時めかせるエピソードもあった。親の古着を貰い夏服を自分たちで作るのだ。でもそれは真白い夏服はではなく、迷彩用にくすんだ色に染め直したもの。7月終わりにやっと縫い上がった。出来映えは色も形も不揃いでも、彼女たちにとっては心弾む唯一の授業だったらしい。やっと夏が来たのだ。

「家屋疎開」空襲で延焼を防ぐ為の建物を取り壊し、空き地を作る作業だ。その後片付けに8月6日8時に集合。爆心地から1km。一年生220人全員死亡。栄養不足だろうか平均137cm32kgの小さな彼女たちの体を包んでいた夏服も、一瞬にして焼け焦げた。20万人といわれる爆死者の内3万人がそんな若人たちだったという。

焼け焦げた愛娘の夏服に愛おしむようにアイロンをかけ直し、ついに平和記念館に寄贈する決心をしほっとした様子の老夫婦の涙。

「ひしゃげた」弁当箱だけが形見の亡き母親がことあるごとに日記に涙し、それを横目でみていたと語る兄。彼も60歳でやっと読む気になれたという。夢中で探しにいった現場に案内して語った。その弁当箱に入っていたという彼女の好物のトマトと大豆入りご飯は、真っ黒に炭化していたという。

ある母は、我が子に会いたくなると大阪から新幹線で駆けつけ、自分も入る墓の娘に語りかける。その声は13歳当時の彼女に語りかける声そのままのようだ。時計は43年間止まったままなのだろう。「家族も変わってまいりました。自分も変ってまいりました。変らないのは親子の情だけですな。」

皆、我が子の亡骸を自ら河原で浜辺で焼いた肉親達だ。

1988年製作「夏服の少女」NHKアーカイブス 2005.6.6 再放映

私の祖父たちも爆死した。くべる薪にさえ事欠く中その亡骸を祖母と空き地で焼いたという父の話。また、当初裏庭にいた黒こげの仏さんが祖父だろうと一旦は決めたが、お腹に下げていた印鑑が焼け残った人が外の路地に倒れていて辛うじて祖父と判ったという母の話。いずれも年老い割と最近なりやっと教えてくれるようになった。

涙ぐむ母に不機嫌な父、そんな両親に連れられ平和記念式典に最後にいったのは、川の土堤から最後に灯籠を流したのは、いつのことだろう。