ぱぴぷぺ_ぽきぷし通信

過去関心 Poughkeepsie の日記(バスケ式+)

「五十年前を思い出しながら描いてみた」

今日は11時02分長崎市民に黙祷(画像:浦上天主堂

ヒロシマ、少女たちの日記帳」

 再放映 2010,8.10(火)BShi 20:00〜17:49
 
 九冊だけ遺った日記(もう一冊は、父親の棺に納められた)
 昭和二十年四月六日の入学から八月五日迄の中学一年生達の日記
 期せずして四ヶ月間の日記となった
 
 廣島へB29は何度も飛来したが最初で最後の空爆だった
 米軍が月曜の六日を選んだのは無論計算済み
 因に呉で撃墜された捕虜12人は母国の落とした原爆での初の爆死者

 平成七年ある生徒の遺族の元に届けられた
 石堂いく江さんの肖像画
 匿名の男性からのその絵の裏には「五十年前を思い出しながら描いてみた」と
 

 手旗信号の授業が伏線・・・
 (創作であろう)小川を隔てたあの交信シーンが泣ける
 
 小学校時代からの友人は、盲腸の術後の具合が悪くたまたま休んで助かった
「(そういう少女ならではの感情が)あったのかもしれません でもあんな短い人生で、あったればこそ良かったなぁ・・・と思いますよ ほんとに」

 確かに・・・あったればこそ いく江さん

※ 建物疎開 つまり「火消し」の打ち壊しである
--以下WiKiより勝手に抜粋

一般的に当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでおり、それは空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、密集した建物群一部除去し、防火地帯(防空緑地・防空空地)を作る事である。移動させるのではなく、破壊してしまう事が人の疎開と異なる。破壊により生まれた空き地は、人々の避難先や復旧時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、目的であった防火地帯としての役割は、焼夷弾の雨の中であまり功を成さなかったと言われている。

建物疎開にあたっては、行政機関がその候補を選定し、ほぼ強制的に破壊が行なわれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「政治的助言」が大きく影響し、被差別部落に対する偏見や、個人的感情から対象に含められたと考えられるものも存在する。

建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。瓦礫の撤去に携わったのは主に国民学校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などであった。広島へ原爆が投下された当時、広島市内では既に数千人の学童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事しており、彼らは直接原爆の熱線を浴びることとなった。