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ぱぴぷぺ_ぽきぷし通信

過去関心 Poughkeepsie の日記(バスケ式+)

リチウム電池

オツムに電池でも埋め込みたいようなときがある(笑) 実際、炭酸リチウムは効果をもたらす。けっこうな副作用にうんざりさせられるとしてもだ。

小学生から中学にかけてむさぼり読んだ北杜夫。文中に「躁鬱病」という不思議な響きの言葉が繰り返し出てきたのを思い出す。病名を広く世に知らしめたしたという功績(笑)は、精神科医でもある本人も自認しているところ。とてもじゃないが、当然「鬱」のときには書けないはずだから、敢えて自らを茶化しなんともお気楽な病気という印象で語っていた。しかし、いざ自分が罹ってみると、その実はダッチロール、操縦不能の繰り返し、緊急事態の連続だ。とても笑い事じゃすまされねぇ。

今「メンタルヘルス」なる言葉がブームだ。何でも当たり障りのないカタカナにすることは、見事に物の本質を曖昧にする。だから健康な人が「俺もウツかも」なんて嗤ってる。精神科、脳神経内科は「メンタル・クリニック」。それで病が軽くなる訳でもあるまいに。因に躁鬱病の最近の正式病名は、'Mood Disorder' 「双極性感情障害」・・・

なんの病でもそうだろうが、その苦しみは当人にしか判らない。だから仕方のないことなのだらうけれど、それが今の世風なんだらうけれど・・・

私の場合「鬱」はいわゆる「憂鬱な気分」とは明らかに異なる。ただただ「とても嫌な感じ」がひたすらどこまでも果てしなく続くのだ。「沈殿」した澱みは焦燥感に突き動かされ、時に激しい怒りとして燃え上がる。そして不思議な事に、厄介な事に、それら両者は表裏一体なのだ。

その深層を表現する力量がないのが、なんとももどかしい。

起因は、過労やら人生の転換(それが良い事柄でさえ)であるという。人様々だろうが、私の場合は体の重篤な変調が前兆だった。その時には知る由もないのだが、いわば体による「同時多発テロ(9.11は自作自演だったらしいが)」。脳が悲鳴をあげていたのだ。しかしそのS.O.S信号を見逃さないことは普通の町医者では到底難しい。

よく「希死願望」というが、幸いにして私にはない。ただ、「茫然自失としていたらいつの間にか自殺してた」という場合はあったかもしれない。今思い返すだに恐ろしいが、「ふと気づいたらいつのまにか知らないホームにぼけっと立ちつくしてた」事。

基本的には鬱病が根底にあり、投薬治療中に「躁転」すると、あなたもめでたく「躁鬱」である。
躁転するとどうなるか。
全能感にひたり、至って幸せ。五感全てが光りに満ち溢れ、何事も愛おしい。本人がそう思っているだけなのが悲惨だが「頭は冴え渡る」。もう恐いもんなしっ! 仕事も遊びも、それいけどんどん、がしがしがし! ある程度判っちゃいる自分もいるのだが、勝手にいっちゃうんだもん、誰か止めてお願いだから(笑) しかし体は機械ではないから、はたまた壊れ、しまいにゃ「感情失禁」、いわば心のおもらし。激高したかとおもいきやすぐさま号泣・・・。事程左様に恐いのが、周囲に及ぼすはた迷惑。酷いと社会的信用失墜に至る。

やれやれ。


最近、こんな本に巡り会えたことを幸いに思う。
腑に落ちるとは、まさしくこの事だ。

"Be patient as being a patient."
('An Unquiet Mind: A Memoir of Moods and Madness' by Kay Redfield Jamison)
「臨床に携わるものの大部分と患者の多くが、『双極性感情障害』のほうが『躁うつ病』といわれるよりも汚名を着せられる感じがすくなくないとおもっているようだ。〜 だが、二つの疑問が起こる。『双極性』という用語はほんとうに医学的に正確なのか。また、ある状態の名称を変えることで、それが実際にずっと受け入れられやすいものになるのか。 〜 それは、躁病が根本的にはうつ病の極端な状態にすぎないのではないかという疑問を無視する。それはよくみられるものであり、臨床的にきわめて重要で、この特異な病気の多くの臨床理論上の問題の核心にある躁病とうつ病の混ざり合った症状の重大さを軽視する。」

訳者あとがきより抜粋
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本書はジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授ケイ・レッドフィールド・ジャミソンの自伝 AN UNQUIET MIND: A MEMOIR OF MOODS AND MADNESS の全訳である。躁うつ病の研究者、心理療法の専門家である著者ジャミソンは、自分自身、躁うつ病である。治療を行う立場にいる者が治療を必要とする者でもあるというパラドクス、この本はそのパラドクスを生きてきたことを公にするという著者の決断によって書かれた。〜 激変する気分のただなかで、「どの気持ちが私にとって本物なのか。どの私が私なのか」と彼女は問う。〜「生物学的なところから起こる病気であるにもかかわらず、その体験は心理的なものであるかのように受け止められる」躁うつ病薬物療法に抵抗して多大な犠牲を払った歳月を振り返る。


松浪克文
東京大学医学部付属病院分院 神経科外来医長(ポキ註:1998年12月25日発刊当時)
解説より抜粋
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躁うつ病の体験談や啓蒙書というと、つい十年ほど前までは、とくに単極性うつ病について「うつ病は必ず治る」などのやや楽観的にすぎる論調とともに、「いい人ほどうつ病になり易い」などの心理的側面が過度に強調された論調が流布していた。〜 本書はそのようなバランスのとれた視点から書かれた躁うつ病の体験談という性質を持っている。このことが著者ジャミソンに可能であったのは、彼女が生物学的な研究に携わってきたことに関係している。博士論文のテーマにヘロイン中毒を採り上げた筆者の自然科学者としての思考法が自分の感情体験を客観的に見ようとする姿勢を維持させ、この種の体験談にありがちな心理的いきさつ話に陥ることを防いでいるからである。


 ”You Haven't Done Nothin”
 "Sometimes I'm Happy"


参考:ある御方からお教え頂いた
http://square.umin.ac.jp/tadafumi/...